<私の空襲体験>          「名もなき点鬼簿」     
  

天野宗郎さん(垂水区在住)


 下記の文章は、NHK神戸放送局「語り継ぐ神戸大空襲」に寄せられた一文ですが、天野さんご本人から了解をいただき、06年8月6日の「なだ戦跡ウォーク」で「資料集」の一部として参加者に配布したものです。
 ※ 注や見出しなどは、吉田俊弘が勝手に入れました。


<私は県立航空工業学校の1年生>

 その頃、私は県立航空工業学校(注:現在の県立兵庫工業高校 航空工業学校は昭和17年設置)の1年生で、陶器の釦でスカスカの制服に肩掛け鞄、それでもブタ皮の靴だけは中学生気分。家は湊東区(今の生田区)東川崎町。
       ・・・<途中省略>・・・
 永田(親類)さんの長女(玉置姓)の近くに空き家があるので灘区弓木町へ身体だけの転居。広さは前と変わらないが、前栽がある。(昭和20年)5月、2年生になり川崎航空明石工場へ「学徒動員」へ行くことになる。胸に空色で「菊水」の上に黒で「學」とマーク付け、ハンマーでテストをしてもらい指導職員に「使いもんにならんわ」と貶されて、現場では「キー102」戦闘機の引き込み脚のテストの見習い。嬉しかったのは会社のマークが入った弁当箱が配られるときだけ。
<昭和20年6月5日の早朝>
 昭和20年6月5日、火曜日、早朝から警戒警報が鳴った。祖母と従弟は玉置さんが一王山の方へ避難するというのでお願いした。1戸に1人居残るのが常識みたいなところがあった。省線電車(今のJR)の直ぐ上なので、ふと見ていたら少し低めの空を飛燕が2機、腹面を見せて南方へ飛んで行った。液冷なので直ぐわかった。主翼が細くいい格好だった。頼むぞ!と言いたいだが2機じゃなあと思った。空襲警報が鳴って30分も過ぎたろうか、「退避!」の声に私は直ぐ上の広い道(市電がまだ将軍橋までしか通ってなかった)の下溝の橋下に飛び込んだ。
 ヒューヒュー、風を切る気配、次いで無音、無音という不気味さ。それから何か無数の棒のようなもので地面をシバかれる感じ。すると急にワァと音響が蘇る。暫くはじいーっとしていたが上がって見てみた。驚いたことに朝と夜が入れ代わったようで、一面一体何が何だかわからない。辺りが煙の中であった。親爆弾が空中で弾けると中から小型焼夷弾が沢山でてくる。これがそうか。ふと右掌に裂傷をしているらしい。手拭いを裂いて巻いておいた。家を見に行ったが、もう駄目だ。まだ爆弾が当たった様子はないが近所が焼けている。玉置さんはもう火がついて類焼寸前だ。東隣の土屋(?)さんの奥さんがまだ当歳くらいの赤ん坊を背にしてうろうろしていた。ご主人は夜勤か何かで留守だったと思う。「逃げましょう!」と声をかけた。空を見たが風は東へ流れている。私は赤ちゃんの顔に火の粉が当たらぬよう庇ってあげた。奥さんも必死になって走った。
<日尾町の神戸銀行の前に来ると>
 やっと類焼地帯を抜け出してほっとした時、日尾町の神戸銀行の前に中年の男性が俯せに両手両足を少し開いて倒れていた。国民服(壮年の標準服)をきちんと着て鉄帽を被っていたと思う。次の瞬間はっと私は声を飲んだ。焼夷弾が一発、首の真後ろから突き刺さりそれがなんと不発弾!八角形で口径は10センチはあったろう。突き出た部分が20センチはあったろう。しかも辺りは日常と全く変わりはない。燃えている修羅場とは数十メートルと境を接している。残酷、あまりに残酷。例えが非常に悪いが昆虫を針で止めたような。私は因縁話風にこの人のことを言いたくない。上から弾を撒く。下にこの男性がいた。それが偶然を生む。醜い話だ。15歳の頭にどう考えたらええかわからない。私の点鬼簿に入れておこう。
<箪笥が1棹、空高くクルクルと>
 六甲道駅近くで突然50がらみの頭の光った小肥りのオジさんに「皆逃げたらあかんやないかー」と怒鳴りつけられた。駅前のアパートの所で土屋さんの奥さんと別れた。そして一王山の方へ元の道を引き返した。途上、大分は焼けた焦土から所々ぱぁっと追い風のため歩き難い足場があったりして、そうこうするうちにちょいと離れたところ、たぶん高徳町だったと思うのだが箪笥が1棹、折から熱気が立ち昇り、それにつられて空高くクルクルと30メートル近く飛び上がる異常さをはっきりこの眼で見た。私は後になって「信貴山縁起絵巻」を見て、ボクも本当に箪笥がとんでゆくのを見たと思った。絵巻で観衆のあれよあれよという表情と私の口を開いて見上げる不思議そうな表情が一致するのを感じた。
<石屋川の川底に、朝鮮の青年が>
 石屋川の堤へ上がった。幾許かの松が植えてあった。4、50歩歩いたとき、川の底に独りの青年が落ち込んでいる。見下ろすと左足が股下から?がれて無い。切り取られた片足は何処にも見当たらない。「哀号!哀号!」という哭き声が弱々しく聞こえる。朝鮮の人だと思った。眼は開けないで、首だけを左右に振りながら自分の運命を嘆いているかの有り様であった。今にして思えば不謹慎なことではあるけれど、この青年もきっと死ぬと思って点鬼簿に入ると考えた。通りがかった2,3人の人が同じように眺めていた。再び歩を辿りながら私は両頬を伝うものを如何にすべき術も知らなかった。阪急の辺りから行けそうになく、私は其処にへたりこんでしまった。
 結局、焼け跡で祖母と従弟に再会できた。玉置の小母さんから祖母が「宗郎は生きてないわ」と泣き出したということを語ってくれた。梯団という見事な飛びようも、今日は朝からB29を1機も見ていない。恐らく頭の直ぐ上を無数に過ぎて行ったのだろう。だんだん腹が立ってきた。
 この日、来襲したB29が437機、焼夷弾3000トンをばら撒き、10万平方キロを焼いた。損失は11機。1機は傷ついて硫黄島に辿り着いた。サイパンの情報部は神戸を今後の目標リストから除いたそうだ。
<戦後、防衛庁(自衛隊)がB29の指揮者ルメイ将軍に>
 戦後、防衛庁(自衛隊)がB29の指揮者ルメイ将軍に勲章を与えたという記事を読んだ。相手は知らない。与える方に問題があるのではないか。少なくともボクの胸奥にある名もない幾つかの点鬼簿にはきっと。
               ※ 「点鬼簿」とは死者の姓名を記した帳面。過去帳


















資料出所:『灘区のうつりかわり』(1988年・灘区勢振興会)


<編集後記>
 最初、見ず知らずの私が電話して「なだ戦跡ウォーク」の資料の件を恐る恐るお願いすると、快くOKの返事を下さった天野さん。少し前からお体が不自由になられたそうで、「元気だったら、8月6日は灘区へ行くんですが・・・」とは奥様の弁。
 ウォーク終了後、お礼かたがた当日の資料をお送りしたら、下記のハガキが届きました。