<私の空襲体験> 「もうこれで空襲に遭わない?!」
大杉英雄さん(灘区下河原通)
下記の文章は、07年8月5日の「なだ戦跡ウォーク」で「資料集」の一部として参加者に配布したものです。
<1945年5月11日>
昭和20年、私は旧制中学の1年生、13歳でした。当時私の家は、鹿ノ下通3丁目で酒店を営んでいました。
その日は、警報があって自宅地下の防空壕に避難していましたが、「ドーン」という、天地をひっくり返すような衝撃と音がして、しばらくすると、火薬の臭いが流れてきたのを記憶しています。
<1945年6月5日>
■早朝、学校へ登校しようとすると、並4ラジオから軍管区情報が流れ、敵機が室戸岬に集結し淡路を通り阪神地方へ向かっていると放送がありました。警戒警報がすぐに空襲警報になりサイレンが鳴り響きました。防空壕、4畳半ぐらいの広さですが、父母と姉の4人で避難しました。
■「グォーン」というB29の爆音、まもなく唐傘をたたくような「ザー、ザー」という音とともに焼夷弾が降ってきました。
防空壕入り口から東に見えるお風呂屋さんのレンガの煙突に焼夷弾が当たり、レンガが飛び散って、私たちの防空壕の近くまで飛んできました。
■しばらくして、防空壕から出てみたら、南側の大石のあたりまで街は一面の火の海、猛烈な炎の勢いです。
■危なくなってきたので、家族で2号線を渡って別の場所へ避難することにしました。当時、母は避難する際の荷物をリヤカーにあらかじめセットしていましたが、そのリヤカーを母が引き、私は後ろから押して逃げ始めました。
■ところが、空襲で母はよほど動揺していたのか足がブルブルとふるえて、リヤカーは同じ所を2回ほどグルグル回る始末、やむなくリヤカーは放棄して逃げ出しました。
■猛烈な熱気と煙があたり一面に立ちこめ、目を開けることも息をすることもままならず、防火用水で湿らせた毛布を被って沢の鶴の防空壕へ向かいました。
途中の下河原3丁目は燃えているのに、4丁目・5丁目の住宅は燃えずに残っていました。モルタルやタイルの外壁が防火の役を果たしたのでしょうか。
■行ってみると、70〜80人ほど入れる大きな防空壕は、近所の避難してきた人たちでいっぱい。子供の泣き声と年寄りの念仏が壕内に満ちて、まるで地獄のような様相。
■私たち若い者は防空壕には入らず、燃えさかる南側の街、私の家も含まれますが、眺めていました。防空壕の南には沢の鶴の酒蔵があり、そのまた南側にはテニスコート(5面ほど・現在のコーナンあたり)があったのですが、その木製のフェンスまでが燃え始めました。火災になった鹿ノ下からは、2号線を挟んで相当離れていたにもかかわらず、ものすごい火炎の勢いで火がついたのです。
■また、避難していく人の自転車に積んだ布団が燃え、鹿ノ下にある教会の十字架が燃え落ちるのを呆然と見ていた記憶があります。
■そうこうするうちに、沢の鶴に引火したら酒のアルコールもあり大変な事態になるということで、防空壕から避難しなければならなくなりました。向かうのは六甲小学校。
■省線(今のJR)から上は焼けていませんでした。学校までの途中、将軍交差点の所にある関電丸ビル(保安協会)の所で、見ると1匹の馬が立っています。ボロボロに焼けこげ、口からは血を流しながらその馬は立ち尽くしていました。おそらく空襲で馬力屋の馬が逃げ出したのでしょうが、その光景は、今も忘れられません。
■空襲が終わってから帰ってみると、自宅は焼失していましたが、子供心には「もうこれで、空襲に遭わないで済む」と、思わずほっとしたのも正直なところです。
■もう戦争はコリゴリ、戦争のない世の中を真剣に希望します。
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