揺れる煙突




今日も公園のベンチに座ってまわりを眺める
公園の横を流れる川
川の向こう岸に酒蔵があり
昔のままの古びた煙突が立っている
赤いレンガづくりの四角な煙突がたかくたかく空に向かってのびている

三十五年前
わたしは鉄鋼労働者だった
工場がストライキに入ったとき
労組の青年部員だったわたしは他の二人とともに
夜陰にまぎれて平炉の円型の煙突にのぼった
まっくらな夜空の中で
煙突の尖端が風圧で一メートル程左右にゆれている
夢中で組合旗をくくりつけ
眼のくらむような感覚と斗いながら
つつと流れる冷汗
鉄製の段梯子にすがりついて降りてきた
翌朝、入場してきた組合員はほうっと空を仰いで見入っている
もともと高所恐怖症のわたしの精いっぱいの行為だった

いま目前の酒蔵の煙突も尖端は左右にゆれているだろうか
あのときわたしたちがよじのぼった製鋼工場の煙突は
 いまも残っているだろうか
相変わらず左右にゆれながら
若い労働者のよじのぼってくるのを待っているだろうか





   高島 洋(たかしま よう)


 1916(大正5)年11月17日〜1995(平成7)年1月13日
 神戸市東灘区生まれ。

 戦後神戸大丸の保安課勤務の後、日新製鋼尼崎工場守衛係として入社。労組の副組合長、鉄鋼労連本部の専従。労組役員から降りて神戸アナキズム研究会を主宰。定年退職後、下水処理場管理会社に65歳まで勤務。

 葬儀は1995年1月16日行われたが、翌日の阪神淡路大震災で神戸市灘区灘北通2丁目の自宅は全壊した。

 詩集『高島洋詩集』『詩集 揺れる煙突』など。

※この略歴は、『高島洋追悼録−わが愚かなる半生』を参考にさせていただきました。






「揺れる煙突」と詩人・高島洋


 ・・『高島洋追悼録−わが愚かなる半生』を読んで(吉田俊弘)


 阪神・淡路大震災の前日、1995年1月16日に葬儀のあった灘区の詩人・高島洋さんの追悼集『高島洋追悼録−わが愚かなる半生』を送ってもらった。
 この追悼録に同じ灘区の詩人・赤松徳治さんが「良心の震源者として忘れない」という一文を寄せておられる。その一部を紹介したい。

 「護憲派の人たちの誘いに応じて、高島さんと私と、時には作家のUさんも加わって、消費税やPKO派遣に反対するデモや街頭行動によく参加しました。
 殊更に連絡を取り合った訳ではありません。この区では、割合事情の許せる文学人がこの2−3人位で、その各自が意志表示の場として参加した・結果として合流した・それが度重なった、ということでしょう。
 私を見つけた高島さんは、いつもほんとうに嬉しそうでした。集会の後、私たちはデモの隊列の後の方で、並んで歩きました。あの体躯ですから、晩年には膝や脚をいためられて、通院しておられましたから、商店街や幹線道路をプラカードを持ってデモるのは、体としてはかなりキツかったのではないか、と今では憶測しています。
 シュプレッヒコールに時には唱和しながら、雑談も混じえて、デモは結構楽しい場でした。
 『わしは、本当は、こんなところ(=政治団体)とは違うんやけど・・・』と、顔を半分こちらに向けて高島さんは、ためらいがちにおっしゃることがありました。
 『私だってそうですよ。思想なんて、顔が違うように皆それぞれに違うんですよ。でも大事なことは、一事に対して、生活人として、文学人として、自分の意志を表明し行動することでしょ。私たちは自分の意志で参加しているのであって、違いなんかどうでも・・・』
 『そう言ってもらえると、ありがたいが。』
    (中略)
 寒い日、夕方の駅頭で、マイクで訴えながら、絶句なさったこともありました。しかし、ありふれた文句の流調さよりも、途切れ途切れではあっても素人の老人が生涯を乗せて訴える片言の方が遙かに重たかったでしょう。
 最後まで自分に、自分の思想に忠実に生き、行動された高島洋さんを、現場目撃者の一人として手短に記しておきます。 合掌」

 同じように高島さんの人柄を、追悼録の事務局の仕事をされた前田幸長さん(詩人・神戸市中央区)も、次のように記している。

 「1994年8月7日猛暑の中、JR元町駅北の私学会館で護憲社会党の発会大会が開かれた。会場の入口で高島さんとバッタリ鉢合わせ。帰途連れ立って元町駅に向かった。
 『いやちょっと人に頼まれてな』と高島さん。『ぼくも同じや』と二人ともなんとなく言い訳がましい。
 『まだちょっと早いが日曜日やし、どこか開いているかな』『日曜日でもやっている店はある。大丈夫』とぼく。」(以下、省略−前田さん済みません)

 体の悪い高島さんにデモの参加をお願いしたり、絶句されたこともあったマイクを頼んだのも、猛暑の護憲社会党発会大会への参加を依頼したのも、私たち若い者だった。
 今、思い起こすと申し訳ないことをしていたという思いと、同時に懐かしい高島さんのあの笑顔、ちょっと恥じらうような笑顔が思い出されてならない。
 いつのことだったか、私は書店で『神戸の詩人たち』(1984年・神戸新聞出版センター)を見つけ、高島さんの詩を初めて読んだ。とくに、「揺れる煙突」に感動した。
 この詩を書いた「たかしま よう」という人が、同じ灘区に住んでいるということもあって、いつか会って話を聞いてみたいとずっと思っていた。その出会いは、赤松さんが書いておられる灘区の集会取り組みの中で、思いの外早く実現した。
 高島さんにお会いした時、詩のなんたるかも知らない者ゆえの話だが、「揺れる煙突」に感動したこと、とくに詩の最後のところ、「煙突が、若い労働者のよじのぼってくるのを待っているだろうか」という部分の余白の頁に、私は思わず「待っているとも!」と書き込みしたことなどを話したと思う。
 高島さんはニコニコしながら、一度家に遊びに来るように、その際に詩集『揺れる煙突』を差し上げようと、若い私の話に応じてくれたのを覚えている。
 その後、私は県会選挙で太田先生の後継者として出馬することもあって、住居を下河原4丁目に移した。高島さんの「揺れる煙突」にある赤いレンガの煙突(沢の鶴酒造工場 下河原5丁目)のすぐ際であった。
 しかし、この煙突は、高島さんの葬儀の翌日に襲ってきた大地震、追悼録の中でどなたかが「高島地震」と命名していたが、この地震で倒壊してしまった(ちょうど酒造りの季節で働きに来ていた杜氏2名が、倒壊した煙突の下敷きになって亡くなった)。
 今では、高島さんと一緒に私の脳裏に刻み込まれ、しっかりと立っている。

 ※「高島洋追悼録刊行委員会」:神戸市中央区熊内町1−5−3
                 前田幸長様方

           「新社会兵庫」(1997年6月10日号)より