1946(昭和21)年9月に鳥取県東伯郡大栄町に生まれました。

亡父が警察官でしたので県内を次々と転勤し、おかげで子どもの私は、転校の度に登校拒否の寸前に何回もなりました。
(小学校だけで、八頭郡智頭小学校、鳥取市醇風小学校、米子市啓成小学校、そして境港市境小学校と4つ変わりました)

子供の頃、当時ラジオから流れてきた「安保反対、安保反対」というデモ隊のマネを妹と一緒にやっていて、帰ってきた親父に怒られた記憶があります。

そんな親父でしたが、家の中には昭和天皇の額と一緒に社会党・浅沼委員長刺殺事件で決定的瞬間の写真を飾っていました。言葉で聞いたことは一度もありませんが、親父なりの民主主義、憲法遵守の気持ちがあったのでしょう。

1965(昭和40)年、県立鳥取西高校を卒業して神戸大学法学部に入学しました。

田舎で当時の国鉄(SL)しか乗ったことがなかった私は、神戸ではじめて阪急電車の特急に乗り、車掌さんが検札に来ないまま下車して、「やった!特急券が儲かった」としばらく思い込んでいました。


神戸では、春3月から4月にかけ家庭でイカナゴを佃煮にする匂いが街のあちこちで漂います。イカナゴを知らなかった私は、イカを煮る時の匂いと勘違いし、「神戸の人はイカの煮たのが好きなんだ」と長いこと思っていました。

神戸は、学生運動、そして社会党の運動、女房との出会いなど、その後の私の人生を大きく変え、地震まで経験させてもらうことになります。でも、神戸に来て本当に良かったと思います。
1971(昭和46)年に当時の日本社会党に入党しました。
 そして9月から社会党県会議員団の党事務局員として勤務を始め、19年間お世話になりました。

当時の社会党はどんどん発展していく途中で、兵庫県議会では定数90のうち野党の社会党だけで20名を越える議員を擁していました。(当時は、坂井時忠知事)

最初の頃の大きな仕事で記憶しているのは、瀬戸内海汚染調査とPCB県条例(野党案)作成に携わったことです。何も知らない青年にとって大変勉強になりました。

社会党県会議員のうちには、何も知らない僕に平気で(?)本会議の質問を全部書かせてくれる議員もいて、これがまた私を鍛えてくれたと(クー!)感謝しています。

 でも、当時の議員で勉強する人は本当に勉強していました。公共料金の値上げばかりする県知事を質問原稿の中で、宮沢賢治の『注文の多い料理店』をもじって皮肉った私の文章を見て、「労働運動ばかりで読んでないから、この本を買ってきてくれ」と私に頼み、質問日までにキチンと読んでいたのには感心しました。

1980(昭和55)年9月に社会党灘総支部の委員長になりました。(〜1999)

社会党灘総支部は、事務所を1971年に設置し、1973年には専従者を神戸市内で一番早く配置、第一号が井上力さんで、その次は、上野恵司さんでした。

私の前の灘総支部の三役は、橋本克己さん、再田辰也さん、今村稔さんで、議員が太田猛県会議員、向達也・前市会議員、平田辰男・前市会議員という錚々たるメンバー。その体制から吉田・委員長、加納功・副委員長、下川攻一・副委員長、井上力書記長(専従)という若手(当時)の三役へ変わりました。

1980年という年は、今のろっこう医療生協(当初は灘医療生協)が鳴海妥(医師)、金丸正樹(事務長)、祖父江八重子(看護婦)という3名のスタッフで建物の二階を借りて出発した年でした。

1991(平成3)年4月に、太田猛先生の議席を引き継いで灘区・県会議員(定数2)に初当選しました。

この当時の兵庫県の社会党は、河上民雄代議士の引退と岡崎ひろみさん(90年の総選挙で当選)の問題で大揺れで、右派が党県本部大会に機動隊を導入する始末でした。
 組合の力をバックに社会党のハイジャックをはかる右派(当時の党県本部役員と「連合」の幹部:結局この人たちは今は民主党に)と社会党を守ろうとする左派(現場の活動家が多い)との攻防でした。

左派の立場から県会に当選した私も、党内事情から当時の社会党県会議員団にしばらくの間は入れませんでした。

その後、県会議員団も神戸市会議員団と同様に分裂し、桂井増見議員、浜崎利澄議員の3名で社会党・護憲クラブ議員団を県議会に結成しました。(当時の県知事は、貝原俊民知事)

1995(平成7)年1月17日に阪神・淡路大震災が発生しました。
(1回目の落選)

住んでいた地域は、「下河原」という地名の通り軟弱地盤の地域で、周辺は4軒長屋の私たちの家を除いてマンションまで含めてほとんどの家が倒壊しましたが、幸いにも自宅は「半壊」でした。

地震の翌年1996年に、社会党から分かれ新社会党が結成されました。

1998年、神戸空港建設の是非を問う住民投票運動をみんなでやりました。(その時の代表委員の一人が田中康夫・長野県知事でした)

「今度こそ」と、2003年4月に3回目の挑戦をしましたが、敗北してしまいました。
 でも、灘の新社会党は市会の井上力さんが「再起」し、全滅はなんとか免れました。

04年5月31日に私の先代である太田猛さん(元・県会議員)が亡くなり、6月3日大勢の方が参加して葬儀が行われました。社会党の時代から議員だった先輩たち、向達也、平田辰男の元市議はすでになく、今回の太田猛・元県議の死去で灘区から先輩議員が完全になくなりました。

07県議選には立候補せず。長い間お世話になりました。代わりに井上力・元神戸市議が07年に続き11年も立候補の予定です。ガンバレ井上力さん!

1999(平成11)年の県会選挙で、153票差で惜敗しました。
(2回目の落選)
2003(平成15)年の県会選挙で、負けました。
(3回目の落選)
地域での役職

河原自治会常任理事、憲法を生かす会・灘事務局長

家族

保子(妻:会社員)、3匹の猫:チビ(♂ 10年生まれ)、ミー(♂ 12年生まれ)、二代目トラちゃん(♂ 18年生まれ)
 娘たちは結婚して外へ

※04年、娘たちそれぞれに子供が同月に生まれ、とうとうジジとババになりました!

趣味

音楽(エレキのベンチャーズ、とくにギターのノーキー・エドワーズは今も好きですが、チャーリー・ヘイドン、ジャネット・サイデルのジャズなども)
料理(茶碗蒸し、手作りウドン)
読書(大佛次郎、小熊秀雄、マイクル・コナリーなど)

住所

神戸市灘区下河原通4−4−5
電話:078−881−9444