<憲法サロン−追記>

    私の空襲体験・・・悔やんできた60年間


 下記の文章は 05年8月19日の憲法サロンで語り部の一人、多鹿照代さんが発表用に書かれたものです。 ※ 見出しと写真などは、吉田俊弘が勝手に入れました。

<昭和20年3月17日午前2時>
  昭和20年3月17日午前2時でした。突然の空襲警報。私は兵庫電話局一交換手。宿直の日、午前2時からの仮眠の交替で宿直室に向う途中、空からの焼夷弾攻撃で火の固まり、鉄の筒が落ちてくる。忽ち火の海の中、皆で交換室に戻るが鉄の扉が降り閉まって入れない(こんな鉄の扉が有る事知りませんでした)。局長室、食堂も燃えています。とにかく1階に降りて外に出なければと階段を降り、履物まで替えましたが、逃げ場が無い。下は暗闇で足にけつまずく物がありました(後で知ったのですが、外から局に逃げてこられた方々の死体でした)。
 空襲になる前、現場の監督(岩原)さんに「空襲になれば何処に集まるのか」と聞きましたが、「局は焼けない、其の時は交換室現場に」と言われていたから、私達6人現場に向ったのですが、交換室の入口は鉄の扉(今で言うシャッター)で閉まっていた。だんだん息が苦しくなる。友人は後から服の後を持ち数珠繋ぎ来ていることは憶えています。暗闇で苦しい、ああ此の辺は自転車置場、とにかく苦しいので其の場でしゃがみこみ、顔の前にある人の背中に鼻をあて、苦しさが少し楽になったように思った。
 其の時頭に浮かんだのが3月13日、大阪空襲の時の空襲体験話がラジオニュースで流れていた事でした。もう駄目と其の場に座り込んだ人は其処で皆死んでいる。何がなんでも明るい所に逃げる事、あ、此の事だと一人ですうと立ち上がり表に出ようと手探りで、守衛室まで歩きました。おじさんから「早く表に逃げ。僕らも書類をまとめ出る所。頭の上から熱湯が落ちてくる。早く出なさい」と言われ、すぐ表に飛出したが、すごい熱風。其の時でした。局の前に大きな防火水槽がありました。其処から知らぬ女の人が私の腕をひっぱり、防火水槽の脇につれて行かれ、頭にかぶっていた頭巾を水の中にビシャビシャに濡らし頭にかぶせ、伏せなさいとおしつけられた。それは防空頭巾の綿や着ている服が乾燥して表に飛び出た時、火の粉がつきパッと燃えあがり全身火だるまで何人もの人が焼け死んでるとの事、私は此のおばさんのお陰で丸焼けで死なずに助けて頂きました。









<夜が明けてみると、5名の仲間が>
 夜が明け少し明るくなり局の中に入ろうとしましたが、門がなく入口もわからない。3階の交換室の下の部屋の窓も閉まってあかない。窓の下で何時間も一人で警報解除になるのを風と火の粉の舞う中に立っていました。まもなく窓が開き、其処から入れてもらったが、局の人は誰れも見かけない。只、兵隊さんが沢山おられた。
 其の時でした。父が心配して駆けつけてきました。私は放心していたと思います。父は着のみ着のままで只一つ袋を下げて、家も何もかも焼けた、何も出す事が出来なかった、後は言葉なく親子で泣きくづれていました。私は目から涙がボロボロ、何も見る事が出来なくなり、今どうする事も出来ない。兵隊さんが此の椅子に掛けなさいと掛けさして下さいました。「貴女は局の方ですか」と声をかけられ「ハイ」と答えると「貴女はどうして此処までこれたのですか」と聞かれた時、あの一緒に逃げた後の5人の事が頭の中によぎった。「交換手の方5、6人見つからないのです。貴女は此処までどうして来たの」と聞かれ、自分が何も見えなくなっているからか一緒に逃げた友人の事を忘れていました。「ハイ、2階から1階まで下り自転車置場の所まで逃げてきましたが、私は息が苦しくて其の場にしゃがんでたのですが、ふと頭の中で3月13日大阪空襲の体験話を思い出し、苦しくてそこに座り込んだら皆其の場で息絶えて死んでいるとの話を思い出し一人パッと立ち表に出てここまで来ました」と。私が話し終わると兵隊さんは、すぐ自転車置場へ。やっぱり四人が座った姿勢で重なって焼け死んでたと知らされたが、私には見えない。後もう一人、あ、角谷さんだ。夕べ交換台で隣にいた時角谷さんが、今夜もし空襲警報になったらお父さんが防火水槽に入りと言われてるのと言ってたから、私は絶対駄目、水槽の水もお湯になると聞いてるから入ったら駄目よと止めました。兵隊さんが、又探しに行くと、やっぱり水槽の中に入ろうとして上からセメントや色々の物が落ち背中はぐしゃぐしゃ、くの字になって死んでる。私には見えない。こんなくやしいことはなかった。あれ程に駄目と言ったのに。其の場に座り込み大きな声で泣いた。涙が湧くように出た。其の時以来、局の人、友人にも会っていない。此の話も語った事が無いのです。それから父が私の目を心配して局からはなれ、目の点眼に救護所へ、又次の救護所へと廻りました。夜は学校に帰り、又朝から救護所へと長い間局へは戻らなかった。此の目が見えなくなったのは窓を開けてくれるのを待っていた時、風が吹き、火の粉で眼球に傷がついて見えなくなっていたのです。其の内だいぶん良くなってきましたが、交換手五人が亡くなった事、私があの自転車置場で立つ時に皆に「早く表へ逃げよう」この一言が掛けられなかった事、自分の心の中、自分が許されぬまま長い間苦しんでいました。
<戦後の時が過ぎ、薬仙寺の空襲慰霊祭に出席して>
 時が過ぎ、或る日、神戸空襲を記録する会か又は守ろう会だったかが出来た事を聞き、すぐ飛んで行き参加しました。又、兵庫の薬仙寺さんの慰霊祭にも。局で殉職された5人は兵庫区に住んでおられた方達でしたし、局からも近かったのできっと5人の御家族の方がお参りにこられると信じ、住所でも記帳されて無いかと度々足を運びましたがお会い出来ずじまい、それきりになりました。
 しかし、平成3年3月13日付の神戸新聞に兵庫電話局大空襲殉職者五人の慰霊祭の呼びかけの記事。此の呼びかけをなさった方も交換手当日宿直、別の組の方でしたが、私達5人が逃場を失い苦しんでいる時、1階の60番機械室に交換手、監督さん皆で避難していたと聞きました。が、慰霊祭に出席した時も5人が亡くなられた話は誰れもが口にしない、又聞いてもくれない。私もあまりにも恐い思いをしたので自分から話す勇気がなかったのです。でも慰霊祭には毎年続けて、自分一人だけが声をかけずに逃げた事をお詫び致して居りました。
  いつの慰霊祭の時だったか、殉職された一人の平井とよ子さんのお姉様二人にお会い出来た事がありました。其の時いっぱい宿直夜の空襲の話をして上げました。「ああこれでほんとに妹は兵庫電話局内で殉職した事、良く解りました。今日までどこでどうして死んだのか局からは何も知らせも無いまま納得いかぬ思いでした。今日貴女の色々のお話を聞き、これからほんとの供養をして行きます」と喜んで頂きましたが、それきり慰霊祭ではお会いできなくなりました。今思えばお姉様二方の住所を聞いておけばと後悔して居ります。
<今、5人の仲間の慰霊碑は>
 それからまもなくNTTの方から、会社の入口に置いていた5人殉職者の慰霊碑を他に移してくださいと依頼がありました(依頼の意味が解りません)。私達急にそんな事言われ困ったのですが、慰霊祭の日は丁度前に天神様の神主様が供養に来ていただいていたので相談しましたら心良く天神さんの庭に移しなさいとのお話。おかげで今も広い静かなお庭でいつお参りしても近所の方達がお花一輪お水とお供えされています。
 私達も始めは50人程の人がお参り致して居りましたが、亡くなられた方、足腰を痛めている方も出来、此の5月に集まった時は9人ほどになり、此れから先どうなるのか心を痛めていた時、憲法を生かす会・灘のあつまりで、神戸空襲を記録する会代表中田政子さんが語る、あ、これに行こう。50数年前に聞き憶えのある会、出席して良かった。
 中田政子様の、お母さんの大輪田橋での哀しい思い出話、私は目を閉じて聞いていましたが、其の光景が瞼の裏に、続けてあの電話局自転車置場の苦しかった哀しかったこと、重なって浮かんで来ました。そうだ、私も勇気を出してここで今まで口に出せなかった苦しい哀しかった事話そう、皆さんに聞いてもらおう。平成17年7月8日、60数年間思い続けて来た事、自分が80才になって初めて語る事が出来ました。
 それと同時に、自転車置場で私が一人立ち上がり表に出る時、後の5人に「早よ立ち表に逃げろ」と此の言葉が言えなかった事、此の掛声を掛けていたら5人は助かったかも知れない、此の思いは私の心の中でいつまでも私の生きてる限り遺って行くと思われます。 でも今日又此処で私の話を聞いて頂けたことで、気持が少しでも楽になり嬉しく思います。有難う御座居ました。


2005年8月19日 多鹿照代


<編集後記−1>
 憲法サロンで上記のお話しをして下さった多鹿さん、その後に慰霊碑にお参りし亡くなった5人の仲間にこのことを報告されたそうです。「長い間、ずっと胸につかえていたものがとれてスッキリした気持ちになれたみたい」とは、多鹿さんの感想でした。

<編集後記−2>
 06年3月17日、兵庫区の薬仙寺であった第35回神戸空襲犠牲者合同慰霊祭の帰りに、まもなくNTTを定年になるKさんと一緒に天神様の慰霊碑をお参りしました。真新しい花がお供えとともに捧げられていました。





※ 関連のページ:憲法を生かす会・灘ニュース(05年8月号および9月号)

<追加資料> 神戸空襲犠牲者合同慰霊祭(08年3月17日)での多鹿さんの記事(神戸新聞08.03.18)