猫のページ(ミミの話)




      ■ 1.前史(初代の飼い猫・ミーヤ)
      ■ 2.ミミ登場(1994年11月)
      ■ 3.大震災とミミ(1995年1月17日)
         @ ミミが行方不明に
         A 白猫が黒猫に
      ■ 4.ミミ、天国へ(2010年1月31日)




 





   1.前史(初代の飼い猫・ミーヤ

 かって私は、猫が好きではなかった。動物は、嫌いではない。子どもの頃からヒヨコや鶏、亀に金魚、カナリアにインコなど、それこそ雑多に脈絡なく飼ってきたが、猫だけは苦手だった。理由は、小学生の時に観た化け猫映画。それを観た日、幼心に猫への恐怖心が生まれたのだ。相当大きくなるまで続き、さすがに大人になるにつれて、恐怖心は消えた。だが、それは猫へ対する、何とはない嫌悪感に変わっていた。
 その私が、ある日を境に、なんと猫と同居することになった。因果応報か?
 当時、小学生だった下の娘が、猫を拾って帰ってきた。よくある話みたいに、雨の日の学校帰り、公園で鳴いていた小さな白猫。娘に早速「ミーヤ」と、少しロシアなまりの名前をつけられたこの猫は、1994年の秋口まで14年間生きた。
 その間に、節操のない話だが、猫の魔力に魅入られたのか、私は「猫好き」に変身していた。



   2.ミミ登場(1994年11月)   

 さて、その猫・ミーヤが老衰で死んだ。急に寂しくなったところへ、健太くん(ワンちゃん)の母・久恒さんから「友達の猫、もろうてくれへん?」という話。すぐに、飛びついた。こうして、地震の前年の11月に新しい猫が来た。
 「あれ!この猫、外人さんや」、連れてこられた猫は娘たちの言うとおり、前の猫ミーヤのような普通の日本猫を想像していたのに、いざ来てみると、少し毛の長い白猫。よく見ると、眼の色も少し緑色。
 違いは外観だけではない。性格がまるで違う。前の猫が人見知りでシャイだったのに、今度はまったくマイペース、屈託がない。
 よく猫は「家につく」と言われる。事実、ミーヤがそうだった。引っ越して今の家に来た折には、神経衰弱寸前で慣れるまで時間を要したのに、今度の猫は違う。来た早々が、前からこの家の住人みたいに、堂々たる態度。我が家に連れてきて、泣いて別れを惜しむ前の飼い主の子どもを後目に、さっさと我が家を闊歩し始めた。名前は、旧名のまま「ミミ」。
 こうして、ミミと新しい生活が始まった。





   3.大震災とミミ(1995年1月17日)

     @ ミミが行方不明に
 

 1995年1月17日の早朝、阪神淡路大震災が襲ってきた。ドンという突き上げるような縦揺れとその後の激しい横揺れ。家の中の柱が、まるで風にそよぐススキのように揺らいで見える。「あかん!家が潰れる」、そう思った。ゴーという音、バキバキという破壊されるような戸外の音。すごく長く感じた揺れが少し弱まった。
 「助けてくれー」という外の声が聞こえた。すぐ、2階のベランダへ出てみた。信じられない光景が眼に飛び込んできた。斜め向かい、
3階建ての藤岡マンションの1階北側部分がペシャンコになって、2階が1階、3階が2階になるほど傾いている。しかも、その傾いたマンションは北東側に、つまり我が家の方向に向かって傾き、続く余震の度に傾き方が大きくなってきた。
 自分の眼で見ている出来事を、頭がどうしても受け付けようとしない。呆然としている私に対して「何でもいいから履く物を、こっちに放ってくれ。階段が潰れてしまってベランダ越しに降りるから」と、マンション3階で男の人が、裸足の足を見せながら叫んでいる。すぐ我が家のベランダにあったサンダルをその人に放り投げた。
 今や他人事ではない。我が家族も屋外に出ようとしてみたら、ミミの姿が見えない。家具やら本やら食器やら、グチャグチャに散乱する家の中を呼んでみたが、まるで返事がない。そうしているうちに次の強い余震がくる。仕方ない。人間だけ半壊状態の家から外に脱出。
 そのときの私の服装は、今から考えると少し恥ずかしい。娘の毛糸のセーターに娘の紫色のジャージーのズボン。なにせ、前日お風呂に入った私は、普段着を全部1階の部屋に置いたまま半袖シャツにステテコで寝て、普段着も財布も、地震のため本や家具の下敷きに。
 さて外に出てみると、向かいのマンションが潰れるくらいだから、近所で1戸建てはほとんど壊れていた。前の金田さんや吉福さんの家、片倉さんの文化まで倒壊してきたマンションに押されて傾いている。並びの西角の藤田さんの家は、2階部分がそのまま道路に投げ出されている。東隣の岡本さん宅のブロックの下敷きになって腰を痛めた人が道にうずくまっている。寒い時期だ。私の女房が家から毛布を持ってきて掛けてあげる。西隣の須原さんのおじいちゃんは一人暮らし、玄関が歪んでしまって戸が開かない。私が足で玄関を蹴破ろうとするが、歯が立たず、窓からの脱出を手伝う。
 それにしても、よく我が家が潰れなかったことだと思う。いわゆる4軒長屋の1つだが、築後30年近くのボロ家4軒同士がお互い支え合ったもの。その代わり、今度潰れるときはきっと将棋倒しで4軒共倒れだろう。
 倒壊したマンションでは、1階が大家さんの藤岡さん兄姉、助かったのは南側に寝ていた妹・美津子さんだけ。姉・悦子さん、弟・賢吉さんがやられた。2階は北側を借りていた西川さん一家4人が全員やられた。近所で家を新築するためこのマンションを借りていたのだが、お祖母ちゃん、お母さん、小学生2人の4人が犠牲になった。
 マンションでやられた6人は、圧死したままコンクリートと鉄骨の瓦礫に挟まれていた。 とくに、西川さん一家の場合は、私や近所の人が試みたが、相手はコンクリートと鉄骨。どんなに頑張ってみても遺体を出すことができない。2〜3日経ってからやって来た自衛隊も警視庁の機動隊も消防隊も歯が立たない。都合で別に住んでいて、たまたま難を逃れた西川さんのお祖父ちゃんに、「こんなんやったら、早く家を完成しとくんやった。孫たちを早く出してやってくれー!」と、泣いて頼まれたが、なんともできない。結局、遺体が搬出したのは、約1週間後、溶接バーナーをもって来て、ジャッキアップした人たちだった。
 こうして地震当日は、近所で全壊だった知人の家、庄治さん宅、太田さん宅などを見舞いに行ったり、近所で生き埋めの状態の家を手伝ったり、瓦礫から引き出した遺体を王子スポーツセンター搬送するに一緒に行ったりした。灘区民ホールの玄関で区役所の三木さんがマスクをして、次々に運び込まれる遺体を、黙々と運んでいるのを見たのも多分この日。
 そうして、あっという間に、その日は暮れてしまい、避難所の烏帽子中学に行ったのは夕方になっていた。
 しかし、避難所で夜9時半か10時頃だったか、突然「東灘のLNGタンクが爆発する。学校から早く非難しろ」と、電気も復旧していない真暗闇の校舎で、怒鳴り声が懐中電灯の光と交錯する。「避難所から避難するって、一体どこへ行きゃーいいんだ?」とブツブツ言いながら、学校を脱出し、自家用車の駐車場に行った。
 行き場のない私たちは、その日は家族4人が車で寝た。家に置きっぱなしにしてきたミミは気になるが、明日の朝行ってみることにした。


     A 白猫が黒猫に 

 翌朝、必要な衣類を取りに家に帰ってみた。
 「ミミは、何か家具でも下敷きになって、死んでしまったのでは?」、悪い思いがよぎる。ガラスや瀬戸物や家具などが散乱した家の中に靴のまま入って、猫を呼んでみる。すると「ミャーン」と、か細い返事とともに、おそるおそるミミがどこからか出てきた。「お前、生きとったんか」と、抱いてやると、ブルブル震えている。それもそのはずだ。家具が散乱し、電気もつかず、人もエサも水もない、まだ余震が繰り返す家の中で丸1日放って置かれたのだ。エサを見つけて駐車場にミミを連れて行った。
 同じ駐車場に避難していたのは、隣の岡本さん夫婦、大久保さん一家、そして村上さんの家族だった。
 あんな状況で、違う、あんな状況だから人間は本当にやさしくなる。ほとんど食い物を持ってきていなかった私の家族に、駐車場ではずいぶんご馳走になった。夜は、みんなでたき火をしながら食事を作って食べ、ビールを飲む。地震直後でみんな神経が高ぶっているのか、まるでキャンプみたいだった。
 震災を経験した人たちは後日、みな口をそろえて「みんなお互いやさしかったよ」と、同じ体験を語っているが、本当にその通りだ。でも、それはせいぜい1〜2週間が限度だった。
 ミミはといえば、やがて持ち前の順応力、マイペースを取り戻して、人間からラーメンを分けてもらったりしながら、たき火の周りを歩き回っている。そして、いつの間にか、煤や汚れのため白猫が黒猫になっていた。





   4.ミミ、天国へ(2010年1月31日) 

 2010年1月31日、ミミが天国へ逝った。老衰だろうと思う。享年16歳、人間で言えば、80歳ぐらい。
 一番の食いしん坊だったミミが、昨日からエサも食べず、好きなアンパンもミルクも飲まず、水だけになり、横になったままジッとしているようになった。いつもの寝室2階に上がれないので、1階書斎にある段ボール箱のハウスにカイロを入れてやって寝かせたが、今朝行ってみると、眠るように冷たくなっていた。
 夜中に、心配だったので何回か見に行った。段ボール箱から飛び出して寝ていたので「ちょっと元気になったのかな?」思いつつ、抱いて元に戻してやったが、その時に「ニャー」と言ったのが、今から思えば私への最期のあいさつだったのかも知れない。
 今朝、起きてきた他の猫たちが別れにやってきた。年寄りイジメみたいに、いつもミミにちょっかいを出していたトラちゃんも、さすがに今朝は神妙で、じっとミミを見つめていた。
  若いタマちゃんはといえば、おっかなびっくりで、ミミをのぞき込んでいた。
   思えば、震災の前の年に我が家に来て以来、地震の時は一緒に避難、被災者の一人みたいにミミはたくましく生きてきた。その時の経験から食い意地が張っていて、人間が何か食べていると、必ずそばに寄ってきてねだるなど、いろんな想い出を私たちに残して、ミミは旅立っていった。

<追記> 2010年3月、ちょうど49日に当たる日、ミミの想い出のサクラがきれいに咲いていました。

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